CHANGE YOURSELF!
〜ぶつかること、傷つくことを恐れるな!〜

もどる


 私は研究家ではない。一現場の人間だ。その現場の肌で感じたことを中心にCHANGE YOURSELF!を書かせてもらっている。

したがって学説とか論文などにそぐわないことも多々あると思うが、その手の小難しい話は研究家にお任せするとして、現場の生の声として受け取っていただきたい。

 その最前線で自立不全者(不登校、NEET、ひきこもり、非行、発達障害等、細分化が進んでいるが、現場では細分化は無意味なので、NOLAではとにかく社会参加が出来ない者すべてを総称して自立不全者と呼んでいる)を抱える多くの親に、いくつかの共通する傾向がある。
この共通項は何グループかに分けられるのだが、そのグループのひとつが今回の話題。

と、こう書くと白か黒かの二進法的思考の持ち主には(これもグループのひとつだが・・・(笑))すぐに、「私の家ではこんなことはしていないのに引きこもっているじゃないか!云々・・・。」と反論される方も、これまた多いので断っておくが、この言葉や考え方がすべての自立不全者の親に当てはまるわけではない。

例外は必ずあるが、私だけでなく現場で多くの親に接してきた支援者の共通の話題であることも事実。

 ある会合で、当事者の親が話していた言葉を聞いていて、「うんうん、こういう人いっぱいいるよなあ・・・これが自立不全防止のキーワードかも・・・」と思った多くの親のある共通点に気づいた。その母親の話の内容はこうだ。

「私は家族が喧嘩やもめごとの無い、仲の良い家族を作ることが理想でした・・・。だからあえて夫婦の違いに異議を唱える事もないし、子供達とも友達のような何でも話せる関係でいたいと思って、褒める事はあっても叱ることはありませんでした。それがなぜこんな風(ひきこもりが原因の家庭崩壊)になってしまったのか私にはわかりません・・・。」

とまあ、こんな具合だが、これ、結構どこの家族にでもある話だと思う。
だがここに、家族だけではない。
社会全体の傾向としての問題点が隠れている。

 「もめごとの無い、何でも話せる仲の良い家族・・・」家族を持つ者なら誰でもそうありたいと願うはずだ。もちろん私も例外ではない。では何が問題なのだろう。

 よく校舎の壁に「明るく元気なあいさつをしよう」なんてスローガンが掲げられているが、だが実際にみんながみんな出来ているかどうかは別の話で、生徒どころか先生自体がろくに挨拶も出来ないなんて学校もある。

かといって、「こんな絵に描いた餅のような話が現実にできるわけないだろう」と、シラケてしまってハナから何もしないと言うのも問題だ。
まあこういう人たちはまた違うグループなのでここでは書かない。

何が言いたいかと言えば、これらは皆、理想であって、現実にクリアするには様々な克服するべき課題や問題があるはずなのだ。

よく民間企業などでQCサークル(クオリティーコントロール活動)と言う言葉を聞かれると思うが、あれは現場の人間一人一人が自分の持ち場で気づいた問題点や改善点を出し合って、全体の問題として話し合い改善していく活動のことだ。
お互いのミスや問題点を指摘することはなかなか言いにくいことだが、より高い結果を出す為には避けては通れない。
お互い言いにくいことが言えずに「なあなあ」にした結果、大きな事故が起こるのは昨今の二ユースを見ればわかることだ。

 同じことが家庭にも言えるのではないだろうか。「もめごとの無い、仲の良い家族」を実現する為には、生い立ちも生活習慣も違う男女がどんなに愛し合って一緒になったとしても愛だけでは埋められない現実がいくつも横たわっている。

さらに子供が生まれたら、その上に子供の個性や考えの違いもプラスされることになる。それらの違いをお互いぶつけ合って喧嘩したり傷ついたりつけたり、トライ&エラーをくり返して乗り越えて行く事でお互いの気持ちを理解し、徐々にちょうどいい塩梅(あんばい)に落ち着いて来るのだ。

こんなこと、よーいドンから実現出来るなんてありえない話だが自立不全者の親自体が良くも悪くも、まじめで完璧主義の人が多くて、「仲の良い家族」といういきなり絵に描いた餅のような理想の家庭を築くことにこだわるあまり、それを本当に実現する為に必要な「お互いが本音で向き合いぶつかり合う」ということをせず、理想家庭を形の上では演じてみても、お互いの本当の気持ちは理解できていない場合が多い。
そのため、円満の実態を突き詰めれば、喧嘩はないけどそれは奥さんがひたすら何も言わなければうまくいくから黙っている・・・(だけど毎日子供に愚痴はこぼす・・・)とか、旦那は仕事に逃げて文句があっても言わないなど、あげればいくらでもある。
ここまではどこの家庭でもあるような話しだが、これが子供に対しても同じで、友達のような親子を演じようとするあまり、また「褒めて伸ばす」なんて育児書のマニュアル通りにしようとするあまり、子供の心を無視して型にはめる。
あるいは、しつけ上子供に対してはっきり言わなければならない事を言えずに「なあなあ」にする。
それでうまくいけばよいが、問題が出てもこの子は私の言うことを聞いてくれなくて・・・ハハハ。なんて他人事のような愛想笑いでごまかすことになる。

このような上辺の家族の結束では、不登校や非行といった危機が家族に訪れればすぐにバラバラになって家族崩壊が起きる。昨今のあんなに仲の良い家族がなぜ?と近所が言うような事件は、上辺は仲良しでも中身は冷え切っているこのような家族の結末だろう。

 もっと身近な我々の現場で言えば、相談に訪れた当事者の親との話で、最初は「私達が悪いんです云々」と神妙だが、具体的に自分達の変えなければならない点に話が及ぶと、とたんに母親はこの子は私の言うことは聞かないし、旦那は見てくれない・・・。父親は母親がずるずる甘やかすのだ・・・と、責任転嫁の嵐。

私達は別に誰かを槍玉に挙げて攻撃するマスコミのような犯人探しをしているのではない。
各自が今後どうすればいいのかを話しているのに、とにかく不祥事を起こした企業の記者会見のように、自分以外の誰かに責任をなすりつけることしか頭にない。

 例えば、我々が親に意思決定や何か重要なことを尋ねる場面でよく出てくるのは、「この子の意見を聞いてみないとわかりません・・・。」とか、「この子は○○と言っているので、○○にしたいと思います・・・。」と自分の意思を言わずに子供に判断を委ねてしまうことだ。

「おいおいあんたの家庭の主は子供なのかい?
そんなに意思決定に時間がかかるほど大きな組織なの?
お宅はお役所が子育てしてるのか?(ーー;)」
と言いたくなるが、その場で決断し、自己責任で即答できる親はきわめて稀だ。

 一見さも子供の主体性を重んじているかのように聞こえる言葉の裏には、自分が最終責任者になることを恐れ、自分(親)がやるべき決断を、子供や他の家族に押し付けているに過ぎない。

そしてこのような過大なプレッシャー(責任)を常に押し付けられる子供にすれば、逃げ出したりキレたりしたくなるのはむしろ当然のことだろう。

だいたい自分の人生を左右するような重要事項を、子ども自身が自己決定し、実行できるくらいなら、とっくに社会に出ているはずで、その力がないからこそ外に出て行くことが出来ないのだ。

そして子供が何も出来ず決断を先送りする姿は親の生き様そのものであることを自覚してほしい。
子供がいくつであっても自立できない以上、親が先頭きって筋道を示すことは当然の責務だろう。

 くり返すが私は犯人探しをしているのではない。ましてや責任を取れと言うつもりもない。

私も親だから、親である皆さんが「それがBEST」と信じてやってきたことであることは良くわかる。

だがその方法が子供に通用しない以上、視点とやり方を変えてみてはどうかと提案したいのだ。

それに家族がぶつかることがそんなに悪いことだとは私は思わない。
家族の中で意見が違ってぶつかったって、それこそ家族なのだから、
他人のように関係が切れることはない。
都合のいいことばっかり与えて純粋培養すれば弱くなるのはどんな生き物でも同じことだ。

人は違って当たり前。肉体も心も細胞レベルでも、異質な物(者)にぶつかって困難を乗り越える(負荷を掛ける)ことで成長する(強くなる)ものだ。

この夏にやっていたドラマ「海猿」の主題歌でB'zの「OCEAN」と言う曲の歌詞に、
 
 「形の違う心 何度でもぶつけあって
                人はみな それぞれに 生きてゆく術を知る・・・」
 
というフレーズがあるが、まさにそのとおりだ。
ぶつかったら痛い。傷つくこともあるだろう。
だがその痛みを経験することで、他人の痛みを受容し共感出来る思いやりを持てる様になると同時に、同じ痛みにくじけない強さを持つことが出来るのだ。

 NOLAの共同生活も同じ。私の家族、スタッフあわせて18名もの大家族が一つ屋根の下で暮らし、日々ぶつかり合っている。

逃げ腰だった寮生は「コラッ、何やってんねん。あほんだらボケっ!」と私の叱責に最初は傷つき戸惑うが、次第にこちらが本気で自分の将来を案じて言ってるのだということを理解してくると、寮生たちの目の輝きが違ってくるのだ。

そして言う「僕はここへ来るまで、本気で叱られたことがなかった・・・ここで本気で叱ってもらって自分の間違いに気づけた」と。
そう言った寮生たちは皆、社会へと旅立ち、嬉々として人生を楽しんでいる。職場や学校で叱られたってもう平気。

それが自分の成長につながることを知っているからだ。

ただし、ぶつかりっ放し、感情のぶつけあいだけで終わることはダメだ。何も生まれない。

必ず相手を理解しようという心(愛)が必要なことは言うまでもない。
 
目指すべきは、「揉め事のない 仲の良い家族」ではなく、
          共に困難に向き合い乗り越えていける「強い絆で結ばれた家族」を作ることだ。
HOME もどる